ポストコロニアルの理論を上手く日本社会に当てはめて、メディアの問題を構造的に抉り出している本著は、自分が読んだ著者の本の中で一番考えさせられた。
ポストコロニアル理論と日本社会については、2011年に話題になった開沼博さんの『フクシマ論』があるが、これは、また違った視点で語られている。大雑把に誤解を覚悟で言えば、『フクシマ論』は、ポストコロニアルで言えばサイード的で、本著は、スピヴァク的であると言う事が出来るだろう。そこについての説明は割愛するが、興味のある人は、サイードの『オリエンタリズム』とスピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』を参照してもらいたい。
タイトルにある「当事者」の時代は、自分の拙い読みでは、最終的に、少しポストコロニアルの射程から脱出する。ポストモダンという小さな物語から、ライフログというより細分化され、個人化された極小の歴史の中で、つまりソーシャルメディアによって、否応なく人々は、「当事者」性を付されて「しまう」。そういった可能性がソーシャルメディアにはあると著者は言っている。
ゲームの外部に存在するマイノリティ憑依から、ゲームの内部のプレイヤーである「当事者」へと変換されるわけだ。
自分の中では、この後の議論は、ネグリ=ハートの『<帝国>』や、宇野常寛の『リトル・ピープルの時代』につながってくると思う。どちらもかなりの物量だが、読みやすい本なので、気になる人はどうぞ。
ポストコロニアル理論と日本社会については、2011年に話題になった開沼博さんの『フクシマ論』があるが、これは、また違った視点で語られている。大雑把に誤解を覚悟で言えば、『フクシマ論』は、ポストコロニアルで言えばサイード的で、本著は、スピヴァク的であると言う事が出来るだろう。そこについての説明は割愛するが、興味のある人は、サイードの『オリエンタリズム』とスピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』を参照してもらいたい。
タイトルにある「当事者」の時代は、自分の拙い読みでは、最終的に、少しポストコロニアルの射程から脱出する。ポストモダンという小さな物語から、ライフログというより細分化され、個人化された極小の歴史の中で、つまりソーシャルメディアによって、否応なく人々は、「当事者」性を付されて「しまう」。そういった可能性がソーシャルメディアにはあると著者は言っている。
ゲームの外部に存在するマイノリティ憑依から、ゲームの内部のプレイヤーである「当事者」へと変換されるわけだ。
自分の中では、この後の議論は、ネグリ=ハートの『<帝国>』や、宇野常寛の『リトル・ピープルの時代』につながってくると思う。どちらもかなりの物量だが、読みやすい本なので、気になる人はどうぞ。
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